最近学校の不祥事が多い。
特に多く報道されていると言い換えた方が良いかもしれない。
とにかく、学校での先生に対する締め付けは益々激しさをましていく。
不祥事を防ぐために地域社会が監視するだとか、免許を更新制にするといった議論がなされているが、まったくナンセンスだ。
「事故は起こるものだという前提」
これをもてば逆に事故は減る。起こってはならない、起こったら大きなリスクがあると思えば思うほど現場の先生は萎縮し、失敗を隠そうとする。その結果明るみになる時期が遅すぎて対応できなくなってしまう。
最近の学校の対応というのはまさにこのことに他ならない。
いじめはあるものだ。
学力低下はあるものだ
子どもは悪いこともするものだ。
その前提に立って、それではそうならないためにどうすればよいかを考えるべきではないだろうか。
今、学校で起こっていることは、実は30代の私には想像もつかないことだと思う。
ましてや、50代、60代の議員の先生方はまったく理解のできない状況になっている。
インターネットによる情報過多(先生より多くの知識を持っているのは普通である)、携帯電話による個人間通信。
ほんの10年前には無かった世界が子どもたちを取り巻いている。
自殺しようにもどうやって自殺すればよいか分からない。悪いことをしようにも、誰に頼っていいか分からない。友達とつるむにも連絡手段は限られている。
このような状況が今まで子どもたちを守ってきた。しかし、今は自殺の方法はインターネットで簡単に手に入る。悪いこともどんなことだって情報は手に入る。友達や知らない大人ともダイレクトにつながる。
もはや、この状況を変えることはできない。であれば、その状況下で一番適切な方法論を考え出さなければならない。
いじめの問題も例えば携帯でやりとりしていれば先生にはまったく見えない。犯罪に巻き込まれることを先生も親も知らない。それをどう克服するか今一度考えなければならない。
昨日、友達に誘われて教会に行ってきた。
人生は不合理なもの。突然不幸になれば突然幸せにもなる。自分だけが責められることもあれば、優越感に浸ることもある。
宗教はその世の中の不合理に答えを与える。それが人々の慰めになる。
私は特定の宗教を信じることはないが、なぜ人はひきつけられるのかという意味を少し勉強した気がした。
しかもキリスト教の場合、出会いの場というのも大きい。やはり毎週日曜日にいろんな仕事の人が一同に会する。非常にエキサイティングな出会いの場だと思う。
とりとめもなく書き綴ってしまったのでこんへんで終わりにする。
ではまた。
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